改憲論議を「正道」に戻すために

改憲論議を「正道」に戻すために

憲法学者・慶野義雄氏の「欺瞞の改憲論議―侵略に目を背ける緊急事態条項の提案―」(『日本』5月号・日本学協会刊、以下「本論」)を読んだ。

 論旨は、その〝副題〟に明瞭である。本論で問題とする〝提案〟とは、「安倍氏とその周辺で提案されている緊急事態条項」に関るものを指す。
  昨今、改憲論議が盛んになり、それは喜ばしいことではあるが、その中でも有力な提案とされる「安倍氏とその周辺」の改憲案に内包する深刻な欺瞞を剔抉する好論として、強い共感を覚えた。

 憲法が緊急事態対処規定を持つことは立憲主義の立場から当然である。

 それは、「立憲政治は、議会政治、権力分立、法の支配などの政治原理に立脚し、討論と説得の民主主義的手法を重んずる」が、「こうした手法は決定に時間がかかり、危機対応には効率が悪いという難点がある」ため、「起こりうる危機を予め予測し、対処の方法を決めておく必要」(本論から)があるからである。

 現行日本国憲法が、この緊急事態対処規定を欠いていることは、立憲主義の立場から重大な欠陥であること明白であり、改憲論議の中心的課題の一つであることは至極当然である。

 現在、自由民主党は、「改正の条文イメージ」として、
  ①自衛隊の明記、②緊急事態対応、③合区解消・地方公共団体、④教育充実

の4項目を提示している。

 同党の『日本国憲法改正案Q&A増補版』の「Q39」は、同党の「改正試案(平成24年4月決定)」が、現行憲法に欠けている「緊急事態条項」を設けた理由について、

 「8章の次に 2 条から成る新たな章を設け、『緊急事態』について規定」

したのは、

「具体的には、有事や大規模災害などが発生したときに、緊急事態の宣言を行い、内閣総理大臣等に一時的に緊急事態に対処するための権限を付与することができることなど」

であり、

「国民の生命、身体、財産の保護は、平常時のみならず、緊急時においても国家の最も重要な役割です。今回の草案では、東日本大震災における政府の対応の反省も踏まえて、緊急事態に対処するための仕組みを、憲法上明確に規定」

したと説明している。

 このような説明に対し、慶野氏は、  

「最大の緊急事態は軍事的、安全保障上の事態である。例示するなら第一に『戦争、侵略等の』緊急事態条項というべきであり、『自然災害』を一番にするのでは順番が逆であろう」。
「『自然災害』を第一に例示することにより、戦争や侵略などのより深刻な安保事態から国民の目を塞いでいる。」
のだと、その危険性を指摘する。

 昨今、コロナに便乗して緊急事態条項の必要を主張する議論の横行も、この意味において、問題の本質から眼をそらす性質のものである。

 慶野氏は、このような「安倍氏とその周辺で提案されている緊急事態条項の胡散臭さ」の由来、それが何故生ずるのかについて、それは安倍氏の「九条一項二項をそのままにして自衛隊の保有を明記するという第九条改正案」にあり、それは、「表面上は改正を装っても、実質的には第九条固定化論に過ぎない」のであり、それは、「自衛隊を明記しても、自衛隊は軍隊であるか否かという『不毛な』論争は永遠に続く」ことになるのだと指摘する。
                                                              
  念のため、安倍氏の主張とは次の通りである。

「多くの憲法学者や政党の中には、自衛隊を違憲とする議論が、今なお存在しています。(中略)私は少なくとも、私たちの世代のうちに、自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、『自衛隊が違憲かもしれない』などの議論が生まれる余地をなくすべきである、と考えます。もちろん、9条の平和主義の理念については、未来に向けて、しっかりと堅持していかなければなりません。そこで「9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」という考え方、これは国民的な議論に値するのだろうと思います。」(平成29年5月3日、公開憲法フォーラムへの「安倍首相ビデオメッセージ」)

 ついでに、本年5月3日の菅義偉首相が、同フォーラムへ寄せたメッセージも見ておこう。安倍論点をほとんど踏襲するものである。
 
「例えば今般の新型コロナへの対応を受けて、緊急事態への備えに対する関心が高まっています。大地震等の緊急時において国民の命と安全を守るため国家や国民がどのような役割を果たし、そのことを憲法にどのように位置づけるかは極めて重く大切な課題です。しかし現行憲法において緊急時に対応する規定は参議院の緊急集会しか存在しません。」
「また自衛隊は大規模災害や新型コロナ等にも懸命に対応しており国民の皆様の多くか ら感謝がされ、支持されています。それにもかかわらず、自衛隊を違憲とする声がある こともまた事実です。そこで自民党では憲法審査会で活発な議論を行っていただくため、『自衛隊の明記』をはじめ、『緊急事態対応』『合区解消・地方公共団体』および『教 育の充実』の4項目について憲法改正のたたき台を取りまとめすでにお示ししています」

 慶野氏の指摘で最も重要なことは、〝安倍自衛隊加憲論〟は、「実質的に第九条固定化」をもたらすということである。 

 慶野氏は、本論の結論において、

「占領下でGHQによって作られた第九条が、戦争を放棄し、戦力の保持を禁ずるのは当然の理である、第九条は戦争や侵略を想定していない。第九条を固定する限り、戦争や侵略事態、あるいはそれらに直結する危機に対処できる緊急事態条項などできる訳がない。最初のボタンの掛け違いにより、後の全てに無理がくるのである。」

と、現行憲法が、GHQの占領政策に基づく立法・制憲であり、その第9条が有する本質的・本来的性格を確認し、その上で、〝安倍自衛隊加憲論〟が、いかに危険で、欺瞞に満ちたものであるかを明らかにしたのである。
 
 憲法改正には国民の広範な支持が必要である。しかし、それを得るために、安易で軽便な論理を用いるべきでは、決してない。将来に取り返しの付かない禍根を残すのだから。

 自民党の中にも、この〝安倍自衛隊加憲論〟に対しては疑念を持つ人々もいるのであろうが、むしろ、今年の5月3日の、山尾志桜里議員(国民民主党)の、この緊急事態条項と9条問題に対する発言は、明晰で筋が通っていて、議論の深まりが期待されるものであった。

「今回のコロナ禍は、憲法に緊急事態条項の定めはないけれど、緊急事態は起きるという事実を私たちにつきつけています。緊急事態条項の不在は、国会承認もない特措法を生みました。」
「そして9条、自衛権の議論も同様です。海警法改正を象徴とするあからさまな中国の拡張主義は、日本の安全保障にとって直接の脅威となっています。
 日本の自衛権は、日本という国家の存続ひいては国民の生命・安全のために必要不可欠な大前提であり、現実に日本を守るため今そこに存在する権限です。
 これ以上、憲法で無視し続けるには余りにも重要で、しかも存在だけ書き込むには余りにも強い力です。だからこそ、憲法に自衛権を位置付け、そして少なくとも基本的な枠づけを定める議論をしようと訴えてきました。
 緊急事態条項にせよ9条にせよ、危機の国家に必要不可欠な力を、憲法上無視し続けることで抑制しようという考え方は、日本の法の支配にとって有害です。(「憲法記念日に、今、伝えたい事」)

 憲法改正という大事業の完遂には、莫大なエネルギーが必要になる。そのエネルギーを生み出す根源的な力は、何よりも「国家の尊厳性」を護ろうとする国民の熱情と、それを裏付ける思想の力であろう。

 この慶野論文は、このことを深刻に提示するものである。
         (令和3年5月8日)

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